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作曲家への道
プロ作曲家の仲間入り
やっとレコードがヒットし、プロ作曲家として
生活ができるようになった裕而(写真は1935年頃)
生活ができるようになった裕而(写真は1935年頃)
いくつレコードを出しても
どれも鳴かず飛ばずだったが、
1934年「船頭可愛や」が大ヒット。
やっと裕而は作曲の仕事で
生計を立てられるようになった。
次女も生まれ、
夫婦でコンサートへ出かけたり
満州旅行へ行ったりと充実の日々。
金子は、ディーナ・ノタルジャコモ、
ベルトラメリ能子 両氏に師事して勉強し、
コンサートの舞台にデビューを果たす。
しかし世の中は 次第に戦争の時代へ。
初のヒット曲「船頭可愛や」
なかなかレコードがヒットせず、
コロムビアとの契約更新も危うくなっていた裕而だが、
「船頭可愛や」が初めてのヒット曲となり、
やっと作曲で生活ができるようになった。
コロムビアとの契約更新も危うくなっていた裕而だが、
「船頭可愛や」が初めてのヒット曲となり、
やっと作曲で生活ができるようになった。
借金も清算
半年毎の印税計算の度に、受け取った印税前渡金が清算できず
積みあがっていた1507円55銭もの未決済金。
「船頭可愛や」の大ヒットにより、
1934年9月の契約で晴れて帳消しになった。
積みあがっていた1507円55銭もの未決済金。
「船頭可愛や」の大ヒットにより、
1934年9月の契約で晴れて帳消しになった。
ワインガルトナー夫妻 来日公演
1937年ウィーンフィル音楽監督も務めたワインガルトナー氏と同じく指揮者の夫人が来日し新交響楽団(現・N響)指揮。
左より、伊藤久男, ワインガルトナー夫人, 豆千代, 松原操,
ワインガルトナー氏, 江口夜詩, 服部良一, 金子, 裕而。
左より、伊藤久男, ワインガルトナー夫人, 豆千代, 松原操,
ワインガルトナー氏, 江口夜詩, 服部良一, 金子, 裕而。
軽井沢 鬼押し出し にて
二人の娘を連れて軽井沢へ出かけた一家。
貸別荘を借りて過ごし、金子は裕而の伴奏で
毎日、歌の練習に励んでいた。1937年頃。
貸別荘を借りて過ごし、金子は裕而の伴奏で
毎日、歌の練習に励んでいた。1937年頃。
旅順戦跡を見学する金子姉妹
夫婦で姉一家のいる満州へ旅行。金子は「これは白玉山の頂上にある日露戦役当時のロシア軍の「ざんごう」ですの。銃弾の跡など蜂の巣のやうにつき、ほんとに当時の事が目の前に見えるやうな気がして痛ましゅうございました。」と記している。
「露営の歌」歌碑建立
日露戦争の戦跡を目の当たりにして心痛めた満州旅行の帰り道
汽車の中で作った「露営の歌」は広く歌われるようになり
翌1938年には京都・嵐山に歌碑が建立された。
汽車の中で作った「露営の歌」は広く歌われるようになり
翌1938年には京都・嵐山に歌碑が建立された。
「くろがね会」の公演
ベルトラメリ能子の弟子の会「くろがね会」で
アイーダ「オ・パトリアミアのアリア」
トスカ「歌に活き恋に活き」を歌う28才の金子。
大倉喜七郎氏より贈られた花を喜んでいた。 (1940年ごろ)
アイーダ「オ・パトリアミアのアリア」
トスカ「歌に活き恋に活き」を歌う28才の金子。
大倉喜七郎氏より贈られた花を喜んでいた。 (1940年ごろ)
「伊太利歌劇の夕べ」
金子「カヴァレリア・ルスティカーナ」ローラ役でデビュー。
二人の娘達も小学校から帰るとすぐに、おめかしして、
伯母(金子の妹)に連れられ見に行った。
(金子は左端。1941年5月18日 日本青年館にて)
二人の娘達も小学校から帰るとすぐに、おめかしして、
伯母(金子の妹)に連れられ見に行った。
(金子は左端。1941年5月18日 日本青年館にて)
戦時中、何度も慰問へ出かけ、
故郷に思いをはせる兵士たちの元をまわった経験を元に
裕而は「暁に祈る」をはじめとして、
たくさんの曲を作った。
そして、それらの曲に見送られて出征し
戻らなかった兵士のことを考えては心を痛めていた。
戦時中の作品については
「兵隊さんの気持ちになって作った」
と語るのみであったが、
裕而が「軍歌」という言葉を使うことはなく
いつも「戦時歌謡」と呼んだ。
慰問団 中支九江 野戦病院にて
1938年10月 裕而は中支従軍慰問団として九江へ派遣された。
この後、1942年に南方慰問団、1944年にインパール作戦の特別報道員派遣として、マレー半島のペナン、ラモウ、
ラングーン、サイゴンなどで兵士たちの元を回った。
この後、1942年に南方慰問団、1944年にインパール作戦の特別報道員派遣として、マレー半島のペナン、ラモウ、
ラングーン、サイゴンなどで兵士たちの元を回った。
裕而 35歳
慰問映画の音楽を指揮する裕而。
戦況が厳しくなると、金子も歌を続けられなくなり、
子供たちも疎開した。
(写真は1944年または1945年)
戦況が厳しくなると、金子も歌を続けられなくなり、
子供たちも疎開した。
(写真は1944年または1945年)
母危篤
1944年8月 ラングーンから帰途、サイゴンで受け取った電報。
「母 5日 (土曜日) 夕刻 危篤に陥った旨は古関夫人から
通知があった」 とローマ字で綴られている。
戦時中、両親どちらの死に際にも駆けつけられなかった。
「母 5日 (土曜日) 夕刻 危篤に陥った旨は古関夫人から
通知があった」 とローマ字で綴られている。
戦時中、両親どちらの死に際にも駆けつけられなかった。
裕而は
揚子江で乗船する船を二隻のうちから選んだが、
もう一方は魚雷に沈められてしまった。
金子は
福島へ疎開した娘達に会いに行き、
そこで腸チフスにかかり生死の境をさまよった。
九死に一生を得る経験をしたものの、
一家は無事に終戦を迎えることができ、
終戦翌年には長男・正裕も生まれた。
戦後は、「君の名は」「鐘の鳴る丘」「モスラ」など
ラジオドラマ・映画・舞台の音楽を担当。
1964年 東京オリンピック開会式では
裕而作曲のオリンピックマーチに合わせて
入場行進が行われた。
長男誕生
古関一家は無事に終戦を迎え、翌年には長男も生まれ、
穏やかな生活を取り戻した。
(1947年10月17日撮影)
穏やかな生活を取り戻した。
(1947年10月17日撮影)
「鐘の鳴る丘」収録風景
戦後は、菊田一夫氏とのコンビでラジオドラマの制作に邁進。
当時は全て生放送であったが菊田氏は脚本の仕上がりが遅く
裕而がハモンドオルガンを即興で演奏することも。
(1949年頃)
当時は全て生放送であったが菊田氏は脚本の仕上がりが遅く
裕而がハモンドオルガンを即興で演奏することも。
(1949年頃)
自宅にて
裕而は生放送のラジオドラマ収録のため、
毎日、放送局へ通う日々を送り、
金子は、歌をやめ育児に専念していた。
(1952年頃)
毎日、放送局へ通う日々を送り、
金子は、歌をやめ育児に専念していた。
(1952年頃)
作曲生活25周年
この頃、裕而はラジオドラマだけでなく、
多くの校歌、社歌も手掛けるようになり、
全国各地へ出かけることが多くなった。
(1954年頃)
多くの校歌、社歌も手掛けるようになり、
全国各地へ出かけることが多くなった。
(1954年頃)
新聞の切り抜きをする金子
育児のため歌をやめた金子だったが、
芸術への情熱は薄れることは無く、詩や随筆を書いては、
新聞へ投書したり、雑誌へ寄稿したりしていた。
(1955年頃)
芸術への情熱は薄れることは無く、詩や随筆を書いては、
新聞へ投書したり、雑誌へ寄稿したりしていた。
(1955年頃)
趣味の8ミリフィルム
裕而も作曲のかたわら、
8ミリフィルムで撮影して編集し上映して家族に見せたり、
風景のスケッチを楽しんだりしていた。
(1958年1月撮影)
8ミリフィルムで撮影して編集し上映して家族に見せたり、
風景のスケッチを楽しんだりしていた。
(1958年1月撮影)
アテネにて
若かりし頃、ヨーロッパ留学は果たせなかった二人だが、
夢見ていたヨーロッパを訪ねる機会に恵まれた。
ロンドン,パリ,ウィーン,マドリ―ド,ミラノ,ヴェネチア,ローマ,
アテネ,カイロなどを巡る長旅だった。(1961年11月)
夢見ていたヨーロッパを訪ねる機会に恵まれた。
ロンドン,パリ,ウィーン,マドリ―ド,ミラノ,ヴェネチア,ローマ,
アテネ,カイロなどを巡る長旅だった。(1961年11月)
だるま市にて
深大寺の「だるま市」でだるまを選ぶ金子。
(1962年3月撮影)
(1962年3月撮影)
書斎にて
菊田氏が東宝のミュージカルを手掛けるようになると
裕而もその音楽を担当するように。
裕而が書いたスコアを見て、弟子たちがパート譜を書いた。
(1962年10月撮影)
裕而もその音楽を担当するように。
裕而が書いたスコアを見て、弟子たちがパート譜を書いた。
(1962年10月撮影)
東京オリンピック・マーチ作曲
1964年、東京オリンピックのためにマーチ作曲を依頼された裕而は張り切って作曲に取り組んだ。出来上がったオリンピック・マーチに合わせ
開会式当日の入場行進が行われた。
開会式当日の入場行進が行われた。
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