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末は音楽家だよ
勇治 生後8か月の頃
明治43 (1909) 年 8月11日 福島県福島市にて
代々、喜多三呉服店を営む
古関家の長男として誕生。
(写真は 1910年4月20日撮影)
代々、喜多三呉服店を営む
古関家の長男として誕生。
(写真は 1910年4月20日撮影)
明治43年(1909年) 8 月11 日
福島市で 代々 喜多三呉服店 を営んでいた
古関家の跡取りとして誕生。
福島師範付属小学校へ入学し、
小学校 3 年生から 6 年生まで担任された
遠藤喜美治先生から手ほどきを受け
作曲を始める。
家業を継ぐため
福島商業学校へ進学したが
西洋の近代音楽に出会い衝撃を受けた勇治は
勉強はそっちのけで音楽三昧の日々。
生家 喜多三呉服店
勇治の誕生した頃の喜多三呉服店。
福島でも有数の呉服店で事業も順調だった。
(1909年 米国製レジスタ―購入記念に
従業員と共に撮影)
福島でも有数の呉服店で事業も順調だった。
(1909年 米国製レジスタ―購入記念に
従業員と共に撮影)
喜多三呉服店の様子
勇治が誕生した頃の店内。
喜多三の当主は代々、三郎次を襲名していた。
喜多三の当主は代々、三郎次を襲名していた。
父・三郎次
裕而の父、七代目・古関三郎次。
謡曲・仕舞の名手だったとか。
謡曲・仕舞の名手だったとか。
母・ひさ
裕而の母、福島の川俣町で
銀行を営む武藤茂平の長女。
なかなか子を授からず、
やっと生まれた勇治は待望の跡取りだった。
銀行を営む武藤茂平の長女。
なかなか子を授からず、
やっと生まれた勇治は待望の跡取りだった。
車の玩具と
車の玩具と一緒に撮られた写真
勇治 3才の頃
明治天皇の崩御により国民は服喪
勇治のエプロンにも黒リボンの喪章
勇治のエプロンにも黒リボンの喪章
勇治 7才の頃
大正5年(1916年) 福島師範附属小学校入学。
3年生で担任の先生より手ほどきを受け、
作曲をはじめる。
3年生で担任の先生より手ほどきを受け、
作曲をはじめる。
裕而11才の頃
大正9年(1920年) 福島師範付属小学校
5年生2学期10月頃
勇治は前から3列目中央
5年生2学期10月頃
勇治は前から3列目中央
14才の時に入会した
「福島ハーモニカ・ソサエティー」では、
編曲や指揮も行うようになり
次第に交響曲の作曲にも挑戦するように。
18才の頃には
「裕而」というペンネームを使い始める。
そして、ちょうどこの頃、
1928年6月16日
仙台放送局でラジオ放送を開始。
福島へラジオの電波が届くようになった。
ラジオから音楽の流れる時代
の到来であった。
福島商業高校へ進学
家業の呉服店を継ぐため
福島商業高校へ進学
福島商業高校へ進学
福島商業高校の頃
勉強そっちのけで作曲ばかりしていた福商時代
海外からも楽譜を取り寄せ
熱心に音楽の勉強
海外からも楽譜を取り寄せ
熱心に音楽の勉強
福島駅にて
近衛秀麿氏(左端)と藤原義江氏(左から3番目)が福島来訪。この頃、裕而は三浦通庸氏(左から2番目) 主宰のレコード鑑賞会「火の鳥の会」で出会ったクラシック音楽に衝撃を受け傾倒。右から2番目の学生服が勇治。(1927年11月22日撮影)
仙台放送局でラジオ出演
福島ハーモニカ・ソサエティーと共にラジオ出演
勇治は前列右から2人目
(1929年頃)
勇治は前列右から2人目
(1929年頃)
川俣銀行時代
昭和5年5月までの2年間
母方の伯父・武藤茂平が営む川俣銀行に勤務
母方の伯父・武藤茂平が営む川俣銀行に勤務
1927年の昭和金融恐慌 により
家業の 喜多三呉服店 は大打撃を受け、
染物の取次を細々と続ける程度となった。
そこで、福島商業学校 卒業後は
伯父の営む川俣銀行へ勤務することに。
18才からの 2 年間、
川俣の町での暮らしは、
銀行勤務のかたわら、
やはり作曲に明け暮れる毎日であった。
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