運命の出会い
内山金子。
写真は、豊橋高等女学校のアルバム。
1929年、20才になった裕而は、
憧れのストラビンスキーが審査員を務める
ロンドンの チェスター楽譜出版社 主催 の
作曲コンクール に応募.。
みごと2等に入選した。
このニュースを新聞で読んだ愛知県豊橋市の18才、
声楽家志望 の 内山 金子(うちやま きんこ)は
たいした人じゃない!
私、この楽譜を送ってもらいたいわ
と手紙を出した。
こうして、二人の文通が始まった。
勇治20才、金子18才のことである。
勇治は、そこで銀行勤めをしながらも、
音楽への情熱を燃やしていた。
音楽談義に花をさかせていた。
文通を始めてすぐに、
音楽談義で盛り上がった二人。
会いたいという思いが募った勇治は、
福島から豊橋まで会いに行くことに。
途中、東京で従兄にスーツを借りて
豊橋に向かったとか。
はじめて実際に会った二人。
金子の母は、本当にあの人で大丈夫?と心配したが
金子は勇治と共に福島へ行くことになった。
たった3か月の文通だけの交際を経ての
スピード結婚であった。
五線紙と鉛筆だけで作曲していた。
1930年9月、
勇治 は 金子 とともに上京。
山田耕筰先生の推薦により
日本コロムビア専属作曲家 となった。
そして、金子が入学を希望していた
帝国音楽学校にほど近い
世田谷代田に新居を構えた。
勇治は「古関裕而」というペンネームで
最初のレコードとして故郷を描いた
「福島行進曲」「福島小夜曲」を発表し、
作曲家生活をスタート。
金子は帝国音楽学校に入学して声楽の勉強。
希望にあふれた船出であった。
日本蓄音機商会(現・日本コロムビア)と契約。
専属作曲家としてのスタートを切った。
勇治と金子は、世田谷中原駅(現・世田谷代田駅)近くの、家々の生垣もまだ小さい新しい住宅街で新婚生活をはじめた。
(1931年撮影。左後ろは代田八幡神社)
いわゆるモボとモガ(モダンボーイとモダンガール)であった。
裕而の伴奏で金子が歌の練習をするなど、
楽しい生活が始まった。
( 当時、東京音楽学校(現在の東京芸大)では
既婚者の入学を認めていなかったとか!)
裕而は晩年まで毎年、鎌倉の鶴岡八幡宮へ初詣に出かけていた。
B面に同郷の野村俊雄氏が作詞した「福島行進曲」を吹き込み、1931年5月 最初のレコード発売。故郷では「福島ハーモニカソサエティー」主催者、橘登氏がチラシを作り売り出しに協力。
交響曲短詩「大地の反逆」が演奏された時のポスター
オペラを学ぶにはイタリア語も勉強しなくては!
レコードのヒットに恵まれない裕而は
ミヤタバンドで編曲や指揮を担当する日々。
毎月受け取っていたお金も
実は印税の前渡金に過ぎなかったため、
いわば借金が増えるばかりの状態。
コロムビアとの契約はあわや打ち切りの危機に。
妊娠中の金子は大きなお腹を抱えて
「今に必ずヒットを出します」
と、社長の元へ直談判に行ったとか。
古賀政男氏らの口添えもあり、
かろうじて契約は継続することに。
東京・世田谷の代田八幡宮の前の自宅の前で。
ハーモニカバンドの全盛期。
宮田東峰氏主催のミヤタバンドで指揮を担当する裕而。
(1933年10月 赤坂三会堂にて)
この写真で着ているワンピースは、紺地のウールで縁に赤と濃紺の縁取り。